次第に政治色を帯びた詩を発表するようになり、文学的急進派の代弁者となっていった。それを疎んだ政府は、1820年に彼を
キシニョフへ送る。1823年までキシニョフに留まった。その間、夏に
カフカース(コーカサス)と
クリミアに旅して長編詩『
コーカサスの虜』や『
バフチサライの泉』を書き、高い評価を得た。1823年には
オデッサに移り住むが、再び政府と衝突し、1824年に両親の住む北ロシア、
プスコフ県ミハイロフスコエ村に送られる。1826年、皇帝
ニコライ1世への嘆願が認められてペテルブルクに戻る。しかし、1825年に起こった
デカブリストの蜂起の後の締め付けのために、北ロシアにいた時期に書いた『
ボリス・ゴドゥノフ』などの詩を発表することが許されず、政府の監視のもと、窮屈な生活を余儀なくされる。