ドレスデンのノイシュタット生まれ。父親は鞄作りの手工業者だったが、産業工業化のあおりを受けて、工業労働者になり、母親は夫の少ない労働賃金を補うため、理容師になる(『わたしが子どもだったころ』に詳細)。教師になろうとして、教師を養成する専門の中高一貫校(
ギムナジウム)に入学。
第一次世界大戦に兵士として召集される。命令と服従という関係しかなかった学校、軍隊に反発を感じ、大学進学を決める。
ライプツィヒで学業の傍ら、新聞の編集委員をしながら、詩や、舞台批評を発表。空前のインフレの影響もあり、苦労して大学を卒業した後、
ベルリンに出て
詩人として認められた。
自由主義・
民主主義を擁護し
ファシズムを非難していたため、
ナチスが政権を取ると、政府によって詩・小説、ついで児童文学の執筆を禁じられた。ケストナーは父方を通じて
ユダヤ人の血を引いていたが、「自分はドイツ人である」という誇りから、亡命を拒み続けて偽名で脚本などを書き続け、
スイスの出版社から出版した。ナチス政権によって自分の著作が
焚書の対象となった際にはわざわざ自分の著書が焼かれるところを見物しにいったという大胆なエピソードがある。
ナチスもケストナーを苦々しく思っていたが、拘束などの強硬な手段を取るにはケストナーに人気があり過ぎ、逆に民衆の反発を買う恐れがあったため、ケストナーの著書を
焚書にした際、子供たちに配慮して児童文学だけは見逃したり、ケストナー原作の映画を作成したりしている。一方で
ベンヤミンを含む、
マルキシズムの立場からは、政治的に立脚点が無く、その理想は、プチブルジョアのための慰めでしかない、という批判を受ける。
戦後は初代
西ドイツペンクラブ会長としてドイツ文壇の中心的人物になった。ちなみにドレスデンにいたケストナーの母親とは戦後の東西ドイツ分断で離れ離れになってしまったが、
東ドイツ政府もケストナーが反ナチを貫いた事を高く評価、母親を手厚く保護したと言う。
1960年、『わたしが子どもだったころ』で優れた子供の本に贈られる第3回
国際アンデルセン賞を受賞した。