1921年当時、独裁化する
ボリシェヴィキ政権に対し、クロンシュタットの水兵たちは、戦艦
ペトロパブロフスク号の船上で開かれた乗組員集会において、言論、集会の自由や、農業や家内工業における統制の解除、すべての政治犯の釈放、すべての勤労人民の配給量の平等化などを要求する15項目の決議を採択した。水兵たちが蜂起するに及び、
モスクワ政府は
赤軍部隊を派遣する。当時、
ロシア共産党政治局員の一人でペトログラード・ソヴェト議長だった
ジノヴィエフは、ただちにクロンシュタットに軍を送り、
トゥハチェフスキー司令官の指揮の下で部隊を編成するが、赤軍の兵士が反乱軍に同情して攻撃命令を拒否すると鎮圧軍は従わない兵士を形だけの裁判で銃殺。さらに、
チェーカーが兵士の傍に付き添い戦闘中に逃亡した兵士は射殺する命令を出した。
赤軍は2度にわたる総攻撃で反乱を鎮圧した。当時、軍事人民委員・最高軍事会議(9月以降は共和国革命軍事会議)議長だったトロツキーは「クロンシュタットは鉄の箒(ほうき)で一掃した」と発表した。赤軍側は4000人以上の戦傷者を出した。一方、反乱側の死傷者の数は不明だが『共産主義黒書』によれば鎮圧後2103人が死刑の判決を受け、6459人が投獄されたと言われる。