1818年、弟イワンと共に親元を離れ、
ポルタヴァの小学校に入学。翌年弟が死去し、深い衝撃を受ける。
1821年、
ネージンの高等中学校に寄宿生として入学。在学中は学業よりも
絵画と文学に熱中し、また父譲りの
演劇の才を発揮して、学校劇では老け役や吝嗇漢を演ずるのを得意とした。卒業後、
1828年に
サンクトペテルブルクに移り、長詩『ガンツ・キュヘリガルテン』をV・アロフなる筆名で自費出版するが、酷評され、失望のあまり国外へ逃亡。同年、ペテルブルクに舞い戻り、俳優を志すが失敗し、かろうじて下級官吏の職を得る。この時期の、薄給に喘ぐ貧寒な生活の経験は、都市の下層民や小役人や俗物たちを描くのちの「ペテルブルクもの」と呼ばれる作品群に活かされることになる。
1830年、『ビザヴリューク、あるいはイワン・クパーラの前夜』を匿名で発表、不遇のうちにも詩人
ジュコーフスキーや、
ペテルブルク大学総長で詩人・批評家の
ピョートル・プレトニョフの知遇を得る。
1831年には愛国女学院に職を得て生活も安定し、同年5月、ジュコーフスキーの紹介で
アレクサンドル・プーシキンと会う。プーシキンはゴーゴリの才能を評価し、以後、親交を持った。同年9月、当時流行のウクライナの
フォークロアに取材した『
ディカーニカ近郷夜話』(第1部1831年、第2部
1832年)を出版し、一躍人気作家となる。
1834年から
1835年までペテルブルク大学で
歴史を教える。その後、ウクライナ物を集めた『ミルゴロド』や、ペテルブルクを舞台にした『肖像画』、『ネフスキー大通り』、『
狂人日記』、『鼻』などの中編小説(ポーヴェスチ、)で文名はいよいよ高まる。
1836年の戯曲『検察官』によってその名は広く一般に知られるところとなるが、その皮肉的な調子は非難の対象となり、それを避けてゴーゴリは
ローマへ発った。途中
パリでプーシキンの訃報を知り、衝撃を受ける(
1837年)。これ以降彼は、教化と予言とによってロシア民衆を覚醒させ、キリスト教的な理想社会へと教え導くことこそが自己の使命であると痛感するようになる。