彼は発掘調査費を自弁するために、貿易などの事業に奔走しつつ、『イーリアス』の研究と
語学にいそしんだと、自身の著作に何度も書き、講演を繰り返した。発掘調査に必要な費用が用意できて事業をたたんだのではなく、事業をたたんでから遺跡発掘を思いついたのである。世界旅行に出て
中国や
日本を訪問した(後述)。
ソルボンヌ大学や
ロストック大学に学んだのち、
ギリシアに移住して17歳の
ギリシア人女性ソフィアと再婚し、
トルコに発掘調査の旅にでたというのは事実である。だが、最初の結婚の失敗、30才も年下の女性と結婚したことによる
アイデンティティ・クライシス、戦争終結による事業の見通しの暗さがトロイア遺跡発掘へのきっかけと言われる。実際の発掘においてはオリンピア調査隊も協力に加わっていた。
彼は発掘の専門家ではなく、当時は
考古学なるものの存在も皆無に等しかったため、発掘技術にも限界があった。発掘にあたって、シュリーマンは
オスマン帝国政府との協定を無視し出土品を国外に持ち出したり私蔵するなどした。発見の重大性に気づいたトルコ政府が発掘の中止を命じたのに対し、
イスタンブルに駐在する西欧列強の外交官を動かして再度発掘許可を出させ、トロイアの発掘を続けた。こうした不適切な発掘作業のため
遺跡にはかなりの損傷がみられ、現在までドイツやアメリカの考古学者によって再発掘が続けられ、考証が進んでいる。