「宇宙的恐怖(
コズミック・ホラー)」などと呼ばれる
SF的な
ホラー小説で有名である。「H・P・ラヴクラフト」と表記されることも多い。また文通仲間の間では「HPL」と呼ばれていた。ラヴクラフトの死後、彼の小説世界は、年少の友人の作家
オーガスト・ダーレスによりダーレス独自の善悪二元論的解釈とともに体系化され、
クトゥルフ神話として発表された。そのため、ラヴクラフトはクトゥルフ神話の創始者とも言われる。ただし、ラヴクラフトの宇宙的恐怖を主体とする小説世界を
原神話や
ラヴクラフト神話と呼び、クトゥルフ神話と区別することもある。
生前はパルプ作家としてそれなりの人気はあったものの、文学的に高い評価は受けておらず、出版された作品も極めて少なかった。しかし死後、ダーレスの創立した出版社「
アーカム・ハウス」から彼の作品群が出版されたことをきっかけに再評価される。
エドガー・アラン・ポーと並んで現在も世界中の怪奇幻想小説界に多大な影響を与え続ける存在であり、
スティーヴン・キングや
菊地秀行など人気作家にも愛読者は多く、アメリカ怪奇・
幻想文学の巨匠の一人として数えられる。
ロードアイランド州プロビデンス生まれ。早熟で本好きな少年だったラヴクラフトはゴシック・ロマンスを好んでいた祖父のフィップル・フィリップスの影響を受け、物語や古い書物に幼い頃から触れていた。6歳頃から自分で物語を書くようになり、16歳の時には新聞に記事を投稿するようになり、主に
天文学の記事を書いていた。しかし病弱で神経症を患っていたため学校に行けないことが多く、ついには希望していた
ブラウン大学への進学を断念し、18歳の時には小説の執筆をやめてしまった。この頃のラヴクラフトの生活は隠者のような暮らしぶりだったという。体調がよくなってきたのは30歳頃である。
1914年4月にアマチュア文芸家の交流組織に参加し、文芸家との交流を再開した。その3年後、再び小説の執筆を開始し、同人誌に作品を載せるようになった。また
1915年には文章添削の仕事を始めていたが、ラヴクラフトが大幅に手を加えた結果、元の原稿とはかなり違う作品になったこともままあった。これは彼の主要な収入源となっていたが、この頃は無料奉仕が多かった。
ヘイゼル・ヒールドや
ゼリア・ビショップなど、ラヴクラフトの添削によってクトゥルフ神話作品を執筆することになった作家が少なからずいる。前述のダーレスの他、
ロバート・ブロック、
クラーク・アシュトン・スミス、
ロバート・E・ハワードらとは膨大な量の書簡を交換している。長年高い評価を得られず、生活は貧しいものだったが、旅行が好きで経済的に余裕があって健康だった時には
ケベックや
ニューオーリンズまで長距離バスを利用して旅行したこともあった。貧困のお陰で長い間希望していた古い家に住むという願いがかなったのも事実である。45歳を過ぎて
ギリシア語をマスターしたが、その翌年1937年に病死した。生前に出版された作品は短編『
インスマウスの影』の一作だけであった。