1754年10月1日
サンクトペテルブルクの夏宮で、ロシア皇太子ピョートル・フョードロヴィチ大公(のちの皇帝
ピョートル3世)と皇太子妃エカテリーナ・アレクセーエヴナ(のちの女帝
エカチェリーナ2世)の第1皇子として誕生する。パーヴェルの出生に当たっては、パーヴェルはピョートル・エカチェリーナ夫妻の子ではなく、エカチェリーナとその愛人セルゲイ・サルトゥイコフ伯爵の間の子であるという説があり、エカチェリーナ自身が回想録でそのことを強くほのめかしている。エカチェリーナの支持者によれば、ピョートルとエカチェリーナ夫妻は不仲以前に、ピョートルが不能であり、子どもを作ることはできなかったと主張している。
この説は、反パーヴェル陣営から強く喧伝されている。パーヴェルは本来ピョートル3世の正統な帝位継承者であり、エカチェリーナ2世は簒奪者であるという批判が、同時代人からもあった。エカチェリーナ側近の
ニキータ・パーニン伯も、当初はパーヴェルの即位、エカチェリーナの
摂政就任を主張しており、エカチェリーナの政権掌握後もパーヴェルの成人後にエカチェリーナが退位することを期待していた。エカチェリーナにとってパーヴェルは、自らの権力を潜在的に脅かす存在であり、そのためパーヴェルの帝位継承者としての正統性に疑義を投げかける試みとして、出生に対して醜聞が蒔かれた可能性は否定できない。
パーヴェルは出生とともに母親から引き離され、
エリザヴェータ女帝の下で養育された。エリザヴェータは後継者であるパーヴェルを溺愛したが、無分別で無思慮な少年に育ってしまったとされる。その一方で、少年時代のパーヴェルについては知的で容貌が美しいとも報告されている。
1771年に
チフスにかかり、容貌が変化したため、粗暴で猜疑心の強い性格を形成したといわれる。
1760年教育係(東宮傅育官)にニキータ・パーニン伯が任命された。家庭教師のポローシンは、パーヴェルが常にせっかちで話に熟慮が見られないと述べている。