1974年の総選挙で保守党が敗北を喫したのち、翌
75年2月に党首選が行われる。当初サッチャーは右派の
キース・ジョセフ元社会保健相を支持していたが、ジョセフは失言で党内外からの激しい批判を浴び、立候補を取りやめてしまう。そこで右派からサッチャーが立候補することになった。当初は教育相しか経験のないサッチャーが党首に立候補するのは無謀と見られていたが、結果
エドワード・ヒースを下し、保守党党首の座に就任する。
1976年には、
ソ連との
ヘルシンキ合意に対する痛烈な批判を行う。これに対してソ連のラジオ局はサッチャーを
鉄の女と呼び非難。皮肉なことにこの呼び名はサッチャー自身も気に入っており、彼女の代名詞ともなった。