しかし、シューマンは音楽家への夢を捨てることができず、
1830年に高名なピアノ教師、
フリードリヒ・ヴィークのもとに弟子入りし、ピアノの練習に励んだ。同年、シューマンの作品、『
アベッグ変奏曲』が初めて出版された。
1831年には改めて正式に作曲も学び始め、ハインリッヒ・ドルンに師事した。しかし、過度のピアノの練習により手を痛めたため、ピアノの演奏を諦めなくてはならなくなり、
音楽評論家、
作曲家として生計を立てる決意をした(近年の研究では、手を痛めたことが疑問視されている。薬指関節部分の腫瘍が元で指が動かなくなったことが直接の原因であると見られる)。
一方、
1834年の夏には、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛事件があり、それは『
謝肉祭』と『
交響的練習曲』が生まれるきっかけとなった。その後、ヴィークの娘の名ピアニスト、クララとの恋愛が進行し、2人は婚約した。それはヴィークの激しい怒りを買い、シューマンとクララはつらい思いをせざるをえなかった。そのような日々の中で『
幻想小曲集』(作品12)、『
幻想曲』、『
クライスレリアーナ』などが作曲された。
1839年、2人は遂に訴訟を起こし、翌年結婚が認められた。2人の間には8人の子供が生まれた。