“三蔵法師”という称号を歴史的に見た場合、すでにインドで経論律の三蔵に通暁した僧侶を“三蔵法師”と呼んでいたとされる。中国でもこれにならい、
南朝宋(420年〜479年)代の求那跋摩・僧伽跋摩(伝記は
梁代の『
出三蔵記集』巻14所収)が、その用例の始まりとされる。その後これが一般化し、特に
北周(556年〜581年)代には、昭玄三蔵や周国三蔵など
僧官の称にも流用された。また
隋代の『
歴代三宝紀』以降、三蔵法師は“三蔵禅師”や“三蔵律師”などと同様に、出身地の名称を付して渡来した訳経僧の中でも、高僧を指して尊称された例が頻繁に見られる。
なお、仏教が中国に伝来した当初のいわゆる「古訳」に属する訳経の場合は、
サンスクリット等の言語で記された梵経を漢語に翻訳(漢訳)した実態に関して記録が残っておらず、その詳細が明らかでない。しかし、玄奘以後の、「
新訳」と称せられる時代の訳経の場合、漢訳された経典の巻首に、経典の題目に続けて、いわゆる「
訳場列位」を記す慣習が定着していた。霊仙三蔵の場合も、『大乗本生心地観経』の「訳経列位」に記された記名によって、「筆受」「訳語」の役割を務めていたことが明らかとなっている。この場合も、訳経の中心である「訳主」となったのは、
般若三蔵であり、本経は般若訳として
経録には記録されている。しかし、実態は、まず、般若が梵文で記された原典を梵語で音読し、それを「筆受」者が書き取り、更にそれを漢字に置き換えるのが「訳語」である。その後、「証義」や「潤文」「参役」などの各種の役割を持った人たちが漢訳経典として適切な経文に校訂し、初めて訳経が完成する。
つまり、新訳時代の訳経事業とは、漢訳組織が確立された分担作業によって成り立っている。その結果、「訳主」として全体をプロデュースする立場にあった人が、訳経者として名を残しはするが、「訳主」は全体の組織の中では、原典を音読するだけであり、現代的な感覚でいう「翻訳」作業に従事するのは、「訳語」者である。それ故に、霊仙三蔵の果たした役割が評価され、三蔵の称号を受けている訳である。また一方では、完成した訳経に対する
訓詁的な見地からの疑義を、ひとり「訳主」である三蔵法師に帰する問題として取り上げる見方もあるが、それは、実際の訳経事業の漢訳組織に関する見識を欠いた一方的な解釈であり、注意を要する。