35万7千石の大封でありながらその実情は、3支藩(蓮池、小城、鹿島)・鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)と龍造寺4分家(
多久、
武雄、
諫早、
須古)の各自治領があったため、藩主の実質知行高は6万石程度であった。2代・
光茂に仕えた
山本常朝の口述を著した「武士道とは死ぬことと見つけたり」で知られる『
葉隠聞書』は、後の佐賀藩の精神的支柱となった。
佐賀藩は
長崎に程近いため、幕府より
福岡藩と1年交代での警備を命ぜられていたが、その負担は代々藩財政に重くのしかかっていた。
文化5年(
1808年)、イギリスの
フリゲート艦が長崎へ侵入して
オランダ商館の引渡しを要求する
フェートン号事件が起こったが、佐賀藩は無断で警備人員を減らしていたため必要な対策がとれず、その不手際を幕府から叱責される。また
1828年のシーボルト台風で死者1万人弱の被害を出し財政が破綻寸前に陥るなど、藩をとりまく状況は悪化した。