しかし、彼の代には零落し、幼くして父を失い母の手一つで育てられた。15歳で明経科に、28歳で
進士に合格し左拾遺となる。監察御史を歴任し、ある事件に連座して
江陵に左遷されたが、
?州の長史をしているときに召し出されて首都へ行き、中書舎人・承旨学士となり、
穆宗の時に工部侍郎・
同平章事(宰相)に進んだが、やがて宰相を罷免され都を出て同州刺史となり、
越州に転じ浙東観察使を兼ねた。
827年頃に都にもどり、尚書左丞検校戸部尚書となり、
鄂州刺史に武昌軍節度使を兼ね、その地で急病により没する。
出世に熱心のあまり、監察御史であったときはしばしば地方官の不正を糾弾し、大政治家の
裴度と勢力争いに及ぶ。元?はその詩文を穆宗に喜ばれ、さらに宦官の巨頭・
崔潭峻と仲がよいので任官できたとも言われる。一時期不遇で文学に専心。
楽府体の詩歌に社会批判を導入し、叙事詩的手法を駆使して新楽府という新生面をひらく。そのため「才子」とも称せられた。やがて
白居易と「元白」と並称されるほど交流を深め、和答に次韻という形式を創造し「元和体」または「元白体」として一世を風靡した。短編小説の『鶯鶯伝』では曲折に富む構成と達意な筆致で、以後に流行する小説を先導した。その作品はすべて時代に先駆けた尖鋭な感覚と才能に支えられ、伝統からの解放を試みたものである。『元氏長慶集』60巻に作品のほとんどが収められている。
元?が詩人・
李賀の才名を聞いて訪問したところ、李賀はすぐに会おうとせず家僕に「明経(元?が明経第一の及第者であったため)何事あって李賀をみるか」と問わせ、憤慨させたことがあった。その後、李賀が進士の試験に応じようとしたとき、元?は李賀の父の諱が「晉」であり「進」と同字であることを理由として、試験を受けさせることを許さなかった。
韓愈がこの件について「諱の辯」を書いて李賀を応援しても叶わなかった、というところから当時の元?の権勢と執拗さをみるべきだろう。