松前藩は
亀田を
和人地の東限とし箱館は空家などが見られ、函館湾に流入していた
亀田川河口の亀田湊の方が繁栄していたとされる
[『津軽一統志』]。この頃には
箱館湊という表記が使われており、
1717年(
享保2年)の『松前蝦夷記』によるとやがて亀田湊に
土砂が流入して
廻船が寄港できなくなり代わって箱館湊が利用されるようになったとされる。箱館では
亀田半島南岸で産出する
昆布が盛んに買われた。享保年間に松前藩が
場所経営を請負制にしてからは物流が活発になり、寄港する船舶が増加した。
1739年(
元文4年)の記録では箱館は
廻船が寄港して繁昌し、
奥羽で最も波浪が穏やかな港のため
東回り廻船が天候の様子見をしていたとある
[『北海随筆』]。
松前城下近郊で採れた昆布のほか、
蝦夷地東部からの集荷も担当したために箱館湊は飛躍的に発展した。このため亀田にあった亀田番所は
1741年(
寛保元年)に箱館に移設され、この番所で沖之口業務も行なわれた。。なお、『蝦夷島奇観』によると移設は
1747年(
延享4年)ともされる。さらに
1785年(
天明5年)には長崎俵物会所が箱館に設置され、北国の
俵物の集荷拠点となった。『東遊記』は松前や江差に比べ、箱館湊はどの方向の風でも問題がなく便が良いとしている。
19世紀に入ると
1801年(
享和元年)に内澗町に
掘割が、
1804年(
文化元年)には堤の先に築島して
造船所が、
1811年(文化8年)には沖之口番所がそれぞれ設けられた。箱館を拠点とし蝦夷地御用定雇船頭にも任命された
高田屋嘉兵衛は
国後島や
択捉島、
根室などの場所を請負い豪商として箱館の発展に寄与している。