計略・智謀に優れていた。若くして曹操に仕え、
冀州平定に際して軍司馬として騎兵を率いて従った。その後、
五官中郎将曹丕の文学となり、魏国成立時に黄門侍郎となった。曹操の死後、平陵亭侯に封じられ、中領軍となる。文帝即位後は郷侯に昇格、征南将軍・荊州刺史・仮節都督南方諸軍事となる。劉備軍の別働隊を奇襲することを提案し、
徐晃とともに劉備軍の別働隊を撃破し、上庸・西城・房陵の三郡九県を魏の版図に収め、征南大将軍に昇進した。
孫権が曹丕に臣従を申し込んで来た時、彼はこれを信用せず、
呉に対する軍備を怠らなかった。こうした功績もあり、曹丕からの信頼は非常に厚かったが、
杜襲のように「彼は人を益しない友人である」と評する者もいた。
222年に文帝が呉を攻めると、夏侯尚が諸軍を統括し、
曹真と共に江陵を包囲して、呉軍の大将であった
諸葛瑾と対峙した。長江の中州に陣取った呉軍に対し、夏侯尚は下流から夜襲をかけ、併せて敵の水軍を火攻し、大いにこれを破った。しかし、江陵城の陥落寸前、軍に疫病が流行したため、退却せざるを得なかった。帰国後、夏侯尚は軍功によって
荊州牧に昇進した。当時、荊州は漢水を挟んで呉と国境を接しており、異民族も多かったため、ほとんどの住民が江南へ逃げていたが、夏侯尚は上庸から新たに道路を通して開発を進め、軍を率いて西方を鎮撫した。このため、山岳や平地の異民族で降る者多く、僅かな年数で数千戸の住民が帰順した。224年、昌陵郷侯に改封される。
夏侯尚には愛妾がおり、正妻に目をかけなかった。正妻は宗室の出身であったため、不快に思った文帝は人をやって妾を殺させた。夏侯尚は悲嘆のあまり精神を病み、埋葬した愛妾を懐かしがって墓を掘り起こすことまでした。これを聞いた曹丕は腹を立てて「杜襲の言葉はもっともであった」と言ったが、やがては後悔して、元の通り夏侯尚を厚遇した。夏侯尚の病が篤くなると、たびたび見舞っては流涕したという。225年に死去し、息子の玄が跡を継いだ。