大井川付近を領有していたのは中村一氏と山内一豊であったが、
治水事業に乗り出したのは掛川城主であった山内一豊であった。一豊は大井川の水害から領地を守り、
石高収入を高めるため大井川の流路変更を企図。牛尾山付近より流路を変える開削工事を行った。この時一豊は牛尾山を掘り崩し、旧流路を堰き止めて水流を新しく開削した
放水路に導水した。この時に旧川締切用に建設された堤防を「
一豊堤」と呼び、現存している。
1600年(
慶長5年)
関ヶ原の戦いで東海道筋の大名は秀吉の思惑に反し揃って東軍・徳川方に付き、戦後一豊は
土佐へ加増転封したのを始め堀尾・中村等の諸大名は西日本へ転封となった。その後は東海道筋は
天領・
親藩・
譜代大名で固められ江戸の防衛に当てたが、大井川に関しては当時平均水深が76cmあり急流であったことから、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった
駿府城の外堀の役目を果たすため、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされた。このため大名・庶民問わず大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した
川越(かわごし)が行われた。東海道屈指の難所であり、『
箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川』とはこの難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である。洪水の際には
川留めが行われ、大井川を渡河する拠点として賑わう
宿場町として
島田と
金谷が賑わった。