佐賀市生まれ。貧困のため
小学校を中退して仕立て屋の丁稚となるが、
1896年に
佐世保へ移り、12歳で海軍造船廠(
佐世保海軍工廠)の見習工となる。このとき
尾崎紅葉や
徳冨蘆花を読んで文学に目覚めた。その後16歳から31歳までは兵役を挟み
旋盤工から旋盤師として約10年間を
呉海軍工廠で、その他
神戸、
長崎、
東京の工場を転々とした。
労働争議が続いた呉海軍工廠時代には
ストライキの首謀者として
広島監獄に拘禁もされた。代表作『煤煙の臭ひ』『或る職工の手記』などはこの時代の経験を母胎としたもの。この間東京で苦学をしたいと3度上京を試みる。2度目の上京時には鉄工所や造船所で働きつつ正則英語学校(
正則学園高等学校)に学び
早稲田大学で聴講にも通う。
1913年3度目の上京の翌
1914年、
堺利彦の世話で出版社社員となり、12歳から長年に亘る職工生活と別れ文筆一筋の生活に転じた。自らの労働体験に基づいて『放浪者富蔵』などの小説を発表。しかし
プロレタリア文学の勃興に伴って運動から遠ざかり、創作活動も中絶。二児を残して妻に去られたため東京市内を転々とする。戦時中は
日本文学報国会に嘱託として勤務。