各種史料を基にすると
上田合戦における真田の軍略に惚れ、そして彼を恐れた本多忠勝が真田家を取り込むため、家康に自らの娘を嫁がせることを提案。それに対して家康は、上田合戦後に面会した信之(当時信幸)の器量に感じ入っており、自陣営の武将として取り込んでおきたいという思いがあったことから快諾、小松姫を自らの養子(一説には秀忠の養子)として、真田家へ嫁がせることとしたようである。なお、松代藩三代藩主
真田幸道(小松姫の孫になる)が幕府に提出した書状には「台徳院(秀忠)」の養女と記されている。
1600年の
関ヶ原の戦いの際、徳川方に味方することを決めた信之と袂を分かった義父の
昌幸が居城である
上田城に向かう途中、小松姫が留守を守る
沼田城に立ち寄り「孫の顔が見たい」と所望した。これに対し小松姫は戦装束で舅の前に現れて「敵味方となった以上、義父といえども城に入れるわけにはいかない」と昌幸の申し出を断った。ほどなく昌幸が近隣の正覚寺で休息を取っているところへ小松姫は子供を連れて現れ、孫の顔を見たいという昌幸の所望をかなえた。これにはさすがの昌幸、
信繁(幸村)父子も感心しきりであったという。また、関ヶ原の合戦で西軍が敗れ、昌幸、
信繁父子が九度山に追放になった後も食料や日用品を送るなどの配慮を怠らなかったという。