崇禎帝は天啓帝らと違い、政治に熱心であり、色事にふけるような事もなく、倹約を心がけていた。しかし猜疑心が強く、家臣を信用できない悪癖を有していた。即位直後から重臣を次々と誅殺してまわり、特に
山海関で満州族からの防衛を一手に引き受けていた感のあった名将
袁崇煥を誅殺した事は致命的であり、明が滅亡した原因として必ず崇禎帝の猜疑心が挙げられる。この点において言えば、明は
猜疑の皇帝に始まり、猜疑の皇帝に終わったと言えるかもしれない。
崇禎帝は少なくとも彼なりに国の事を案じて大変な努力をしていた。李自成が
西安で皇帝に即位した時も「明の皇帝は甚だしく暗君という訳ではないが・・・」とある程度の評価をしている。その猜疑心により全てが裏目に出て自滅した崇禎帝だが、その原因は明が既に亡国の淵にあり、更には国政に与る
士大夫層が長年の政治的腐敗により使い物にならず、信用ならない存在であることを突きつけられたことにあるといえる。滅亡寸前の明王朝の国力を回復させるために、国政改革に身を投じたものの、
万暦帝らの悪政によって決定づけられた衰退の流れを止めることができず、最終的に痛ましい最期を遂げなければならなかった。時運に恵まれなかった悲劇の人物であろう。