明のころの人と思われるが、水滸伝の作者として名が見えるのみであるため、何者であるのか実在したのかさえもよくわからない。『七修類稿』『百川書志』等は銭塘の人としている。
民国17年に胡瑞亭なる人物が、施耐庵の素性が判明したと主張し、その証拠として施耐庵の「墓誌」と称する文書を持ち出した。その「墓誌」によれば、施耐庵の本名は施子安といい、字を耐庵という。淮安の人で、進士となり官途についたが、のち官を棄てて郷里に帰り、鬱々として志を得ぬまま75歳で死んだ。『水滸伝』や『三国志演義』、『平妖伝』などを執筆し、門人の羅貫中に校正させていたという。一説に『三国志演義』の著者が施耐庵とされるのは、この「墓誌」による。しかし、この「墓誌」は信憑性が強く疑われている。