江戸時代に入ると、幕府は盲人が当道座に属することを奨励し、当道組織が整備され、
寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の
大名と同等の権威と格式を持っていた。当道座に入座して検校に至るまでには73の位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった。当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で、一文の誤りもなかったという。また、視覚障害は世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで73段に及ぶ盲官位が順次与えられた。しかしそのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった。検校になるためには
平曲・
地歌三弦・
箏曲等の演奏、作曲、あるいは
鍼灸・
按摩ができなければならなかったとされるが、江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となった。ただしすべての当道座員が音楽や鍼灸の才能を持つ訳ではないので、他の職業に就く者や、後述するような金融業を営む者もいた。最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて719両が必要であったという。江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった。
その一方で、官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、
元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い
御家人や小身の
旗本等に金を貸し付けて、暴利を得ていた検校もおり、
安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両等、多額の蓄財をなした検校も相当おり、
吉原での豪遊等で世間を脅かせた。同七年にはこれら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた。