そのうち
源氏、
足利、
徳川の各武家権力は、武力により政権を樹立した。
源頼朝が確立したが、形式上
朝廷から任ぜられる形で
征夷大将軍の位に付く事で
幕府を開き、
封建制とも呼ばれる分権的な統治を行い、地方領主として地域の実効支配権を持つ
武士の連合政権の形をとった。武家政権の長は自己の軍事力によって政権を獲得して、封建制度的な土地所有と法律による支配を実施した
[吉田昌彦「将軍宣下」『歴史学事典 12王と国家』 弘文堂、2005年 ISBN 978-4-335-21043-3]。だが、その政権及びその長としての公認はいまだ中央権力としての地位を保っていた
天皇による将軍宣下によって現実的な権力と貴種性の承認によって初めて確立しえた
。
室町、
徳川幕府は、
征夷大将軍の位を
将軍家の男子に代々世襲させる一種の王朝だった。
特に
律令制に基づいて統治が行われた
奈良時代は、古代からの地方首長の末裔である
郡司層の首長権に由来する権威を利用しつつ、国司四等官の主催する
国衙機構が、
戸籍を編纂して
朝廷の統治領域全体に個別の人別支配の網を張り巡らしていた。しかし
平安時代になるころから地域社会での階層分化が激しく進み、資本となる動産を蓄積し、安定経営を成し遂げた少数の富豪
百姓が、経営が破綻して口分田を失った零細百姓層を隷属下に収めていく動きが激しくなっていった。そのため、国衙機構が戸籍に基づく人別支配をし、なおかつ中央政権の維持に必要な
税の徴収を行うことは困難となり、現地派遣の筆頭国司(
受領)が前代より大幅に権限委譲された上で、富豪百姓層を通じて地域支配、税の徴収を行う
王朝国家体制が
10世紀に確立した。この新しい体制下で、
国衙軍制を担う戦士として、
武士身分が成立した。国衙軍制と
武士身分が確立する過程で、初期の
武士が自分たちの地位確立を目指して行った条件闘争が武装蜂起にまで拡大し、
平将門と
藤原純友らによる
承平天慶の乱に至った。この乱は短期間で鎮圧されたが、この渦中に
平将門は
坂東諸国の国衙機構を掌握して「新皇」を称しており、これを武家政権の先駆とする見方もある。