大阪学院大学高等学校入学まで本格的な
野球の経験はなく、中学時代は
砲丸投の選手として活躍していた(県大会で2位をとったこともある)。
1966年、
全国高等学校野球選手権大阪大会でベスト4の成績を残す。(同校は彼が打ち、彼が投げて抑える弱小チームであった。この大会、江夏は予選7試合を1人で投げ、わずか3失点。準決勝は味方のエラーで失点、0-1で敗戦)。同年導入された
第1次ドラフトで
阪神タイガースから1位指名され、4球団からの競合の末、プロ野球選手となる。高校時代は
変化球の投げ方を全く知らず、試合ではキャッチャーの変化球要求のサインに首を振る真似だけをし、いかにも直球以外の球を投げられるように見せかけて打者と駆け引きをしていた。これに試合観戦に来ていた阪神のスカウト陣が目を留め、「直球もよいが、なかなか頭の使える選手だ」として指名に踏み切った。入団後は、砲丸投げをしていた影響で持っていたいわゆる「担ぎ投げ」の癖を、
林義一コーチが矯正させ、変化球も教え込んだ(江夏は温厚で真摯に教えてくれた林のことを「お師匠さん」と呼び慕っている)。1年目の
1967年から豪速球を武器に225
奪三振で
最多奪三振を記録。
2年目の
1968年、この年
9月17日の甲子園球場における対
巨人戦で
王貞治の打席で
稲尾和久の日本記録に並ぶ353奪三振を記録した後、後続の打者をすべて意図的に三振以外で打ち取り(投手の
高橋一三も低めの球でセカンドゴロに打ち取っている。江夏曰く「
森〔昌彦〕さんとピッチャーは三振を取らないようにするのがむしろ大変だった」)、再び王の打席が回ってきた時に、記録更新となる354個目の三振を奪う離れ業をやってのけた。しかもこの試合では、自らのバットでサヨナラヒットを放っている。王からの奪三振にこだわったのは、当時阪神の
エースだった
村山実が、節目の記録となる三振を常に
長嶋茂雄から奪うようにしていたことを真似たものである(新人時代に村山がONを指さして「俺はこっち〔長嶋〕、お前はあっち〔王〕や」と、王をライバルとするよう命じられたともされる)。これ以降も江夏は王との勝負に固執し、通算で57の三振を奪ったが、直球で勝負を挑んでいたために20本の
本塁打も打たれている。王から最も多く三振を奪った投手は江夏だが、江夏から最も多く本塁打を打った打者もまた王である。また、江夏は王に対し一度しか死球を与えていない。さらに
10月8日の対
中日戦で
新宅洋志から
サンディー・コーファックスの記録を抜く383個目の奪三振を達成、その記録を401個まで伸ばした。これは現在でも日本プロ野球はもちろんメジャーリーグの記録も上回る世界記録である。
1971年7月17日、
西宮球場で行われた
オールスターゲーム第1戦で、速球と正確なコントロールで打者のバットにことごとく空に切らせ、初の9者連続奪三振を記録した。オールスターゲームは、投手は規定で3イニングまでしか登板できないため、これは
振り逃げが起こらない限り可能な最高の成績である。この試合で、キャッチャーフライを追った
田淵幸一に「捕るな!」と叫んだと言われているが、本人はこれを「(スタンドに入るだろうし、テンポ良く投げたかった為)追うな!」と叫んだものであると、著書の中で述べている。この9連続を挟む15者連続奪三振(前年5三振、翌日1三振)も、オールスター記録となっている。なお、この試合で江夏は自ら先制ホームランを放っているが、オールスターでの投手による本塁打は
1960年の
巽一に次ぐ2人目。これ以後、現在に至るまでオールスターでの投手による本塁打はない。