その後、
長安から
涼州を平定した
曹操と、益州を奪取した
劉備に挟まれる形となった張魯は曹操に降伏したため、曹操は南鄭の呼称を復活した上で
夏侯淵を駐屯させるが、
黄忠率いる劉備軍に大敗し、漢中は劉備の支配圏となった。漢中を支配した劉備は漢中王に即位し、後漢が滅ぶと漢の皇帝として即位した(ただし、一般的には蜀・
蜀漢と呼ばれている)。劉備の死後は、
丞相諸葛亮が漢中に駐屯し、
北伐の拠点としていた。諸葛亮の没後、
魏が
蜀を滅ぼした際に(
蜀征討戦)、漢中を含んだ益州は魏の支配権となるが、魏はまもなく禅譲により
西晋に移行する。三国を統一した西晋は梁州を復活させて漢中郡を所属させた。
西晋滅亡後の
南北朝時代には、
南朝と
北朝の両勢力が接しており、その帰属は度々変更された。
隋の時代に一時「漢川郡」と改称したが、
唐になって旧に復され、後に梁州の管轄区域が漢中郡のみとなるとそのまま梁州と改名された。
徳宗の時代、
節度使の反乱によって都・長安を追われた徳宗が漢中に仮首都を置き、以後「興元府」と改名した。
北宋には興元府は利州路の治所となり周囲の成都府路・梓州路・?州路と合わせて「四川路(川峡四路)」と呼ばれるようになる。その後、
金に奪われるものの、北側に接していた
モンゴル帝国が南下の際に興元府を占領して漢水から金の領土の南側に回って南北から挟撃、金の滅亡につながった。モンゴル帝国が分裂して
元の時代には興元府に代わって「興元路」が設置され、同時に興元路の帰属も従来の四川から分離されて
陝西省に変更された。