釈尊が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。
この「無常」を説明するのに、「刹那無常」(念念無常)・「相続無常」の二つの説明の仕方がある。刹那無常とは、現象は一刹那一瞬に生滅するというすがたを指し、相続無常とは、人が死んだり、草木が枯れたり、水が蒸発したりするような生滅の過程のすがたを見る場合を指していうと、説明されている。
「祇園精舎の鐘の声」ではじまる軍記物語『
平家物語』、
吉田兼好の随筆『
徒然草』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」ではじまる
鴨長明の『
方丈記』など、仏教的無常観をぬきに日本の中世文学を語ることはできない。単に「花」といえば
サクラのことであり、いまなお日本人が桜を愛してやまないのは、そこに常なき様、すなわち無常を感じるからとされる。「永遠なるもの」を追求し、そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美を感じる傾向を根強く持っているとされる。「無常」「無常観」は、中世以来長い間培ってきた日本人の美意識の特徴の一つと言ってよかろう。