『博物記』によると、祖父の王凱はその名士としての血統と容姿の美しさを理由に劉表に気に入られ、娘婿となった人物であり、父の王業は劉表の外孫で、王粲の子が刑死しその家系が断絶した後、その一万巻の蔵書を受け継いだ人物である。
正始年間、黄門侍郎の官が続けざまに欠員となったので、何晏は
賈充・
裴秀・朱整を起用したが、王弼の起用も審議した。しかし、
丁謐が
王黎を
曹爽に推薦したので、曹爽は王黎を起用した。そのために王弼は
尚書郎に任命された。任命を受けた王弼は、曹爽に時間を貰いたいと願い出たので、曹爽が彼のために側近を下らせたが、王弼は
道家の理論を語りあうだけで、他のことにはまったく触れなかったので、曹爽は彼を軽蔑した。
王弼は浅薄ではあったが、穏やかな性格で、酒宴を好み、
音律に通じ、投壺(壷の中に矢を投げ入れる遊び)が上手だった。王弼は
道家の学説では何晏に及ばなかったが、何晏を超える説も多かった。王弼は自分の得意分野で人を嘲笑したので、当時の知識人から憎まれた。
鍾会は王弼と仲が良く、王弼の論の高邁さに感服していた。鍾会は何晏とも交流があり、何晏の「聖人には喜怒哀楽の情が無い」という論を祖述した。王弼は何晏のこの論を批判し、「聖人は人より精神の働きに優れ、人と同じ点は五つの情(喜怒哀楽と欲または怨)にある。精神の働きがすぐれているからこそ、宇宙の和楽の気を体得して無に通ずることが出来る。五つの情が同じだからこそ、哀楽の情によって外物に対応してしまうのである。だからこそ聖人の情は外物に引きずられない点をとりあげて、外物に対応しないのだと考えるとすれば、それは間違いである。」と主張した。