汾州(
山西省汾陽)司馬の王處廉の長男として生まれる。母の崔氏は敬虔な仏教徒で、王維はその影響を強く受けながら成長した。名の維と字の摩詰とは、『
維摩経』の主人公である
居士の
維摩詰の名を分割したものである。幼少から文名を挙げ、15歳ころから都に遊学、皇族や貴族の知遇を得てさらに名声を高めた。
721年ころ
進士に及第、大楽丞になるも微罪を得ていったん済州司倉参軍に左遷される。程なく中央に復帰、
734年(
開元22年)には右拾遺に抜擢され、以後監察御史・左補闕・庫部郎中を歴任する。母崔氏の死を受けて服喪後、さらに吏部郎中を経て
天宝末には給事中の要職に至った。しかし折悪しくこのとき
安史の乱が勃発、王維は賊軍に囚われ強要されてこれに仕えたため、乱の平定後その罪を厳しく問われた。しかし弟の王縉らの取り成しにより、太子中允に降格されただけで許された。王維は、乱の際に「
香水銭」と呼ばれる授戒による軍費調達によって
粛宗の信任を得た
荷沢神会の支持者の一人であった。その後、太子中庶子・中書舎人・再び給事中に累進、尚書右丞として生涯を終えた。画にすぐれ、北宋の蘇軾に「詩中に画あり、画中に詩あり」と称された。