王羲之は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏に生まれ、東晋建国の元勲であった同族の
王導や
王敦らから一族期待の若者として将来を嘱望されていた。東晋の有力者である
?鑒の目にとまりその女婿となり、またもう一人の有力者であった征西将軍・
?亮からは、彼の幕僚に請われて就任し、その人格と識見を称えられた。その後も王羲之は朝廷の高官から高く評価され、たびたび中央の要職に任命されたが、王羲之はそのたびに就任を固辞した。友人の揚州
刺史・
殷浩による懇願を受け、ようやく護軍将軍に就任するも、しばらくして地方転出を請い、右軍将軍・
会稽内史(現在の
浙江省紹興市付近)となった。
354年、かねてより王羲之と不仲であった
王述(琅邪王氏とは別系統の太原王氏の出身)が会稽内史を管轄する揚州刺史となる
[『晋書』王羲之伝によると、王羲之は前任の会稽内史であった王述を軽んじていた上、彼が母の喪に服していたときも、一度しか弔問に訪ねなかったことから、王述は王羲之を恨むようになったという。また『世説新語』仇隙篇によると、王羲之は王述の母の弔問に赴くといっては、たびたび取り下げ、ようやく訪れたときも、喪主の王述が哭礼している前に進み出ず、そのまま帰ってしまうなど、王述を大いに侮辱したという。]。王羲之は王述の下になることを恥じ、会稽郡を揚州の行政機構からはずすよう要請したが却下された。王述が会稽郡にさまざまな圧力をかけてくると、これに嫌気が差した王羲之は、翌
355年、病気を理由に官を辞して隠遁する。官を辞した王羲之はその後も会稽の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、
仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごしたという。
唐の太宗(李世民)は王羲之の書を愛し、真行290紙草書2000紙を収集した
[張彦遠 法書要録第4巻]。崩じた時に『蘭亭序』を一緒に
昭陵に埋めてしまったと言われている。その後戦乱を経て王羲之の真筆は全て失われたと考えられている。現在、王羲之の書とされているものも、唐代以降に複写したものと、石版や木板に模刻して制作した拓本のみであるとされている。『快雪時晴帖』(
台北の國立
故宮博物院 所蔵)は、古くは唯一の真筆と考えられており、
清の
乾隆帝はこの書を愛し、自ら筆を持ち「
神」と記した。しかし、『』などと同様に精密な
双鉤?墨等の手法による模写本であり、外見上は真筆とまったく区別できない。拡大鏡によって初めてそれが複製であると分かる
[比田井南谷 P.115、P.117 - 118][鈴木洋保 P.19]。