申屠嘉は清廉で正直であり、私的な訪問を受けなかった。当時、文帝には太中大夫
?通という寵臣がいたが、申屠嘉が入朝した時に?通が怠慢であった。申屠嘉は「陛下が臣下を寵愛するなら財産を与えるのはよろしいですが、朝廷の令は厳粛にしなければなりません」と言った。文帝は「私から言って聞かせる」と答えたが、申屠嘉は丞相府に戻ると?通を丞相府に呼び出した。来なかったため彼を斬ろうとしたので?通は怖れて文帝に相談すると、文帝は「行きなさい。後から私がお前を召し出すから」と言ったので、?通は丞相府に行った。申屠嘉は「小臣のお前が殿上で戯れを行ったのは不敬であり斬首に当たる」と言い、?通は何度も頭を床に打ち付けて謝罪し、血だらけになった。そこで文帝が使者を遣わして?通を召し出し丞相に「この者は私の弄臣なのだ、許してやってくれ」と謝罪したので?通は助かった。
その後文帝が死亡し
景帝が即位した。景帝は
内史の
晁錯を寵用し、法令の変更が多く、また
諸侯王の領地の削減を推し進めた。一方で丞相申屠嘉の言う事は聞き入れられなくなっていったので彼は晁錯を憎んだ。晁錯が内史の役所に新たに設けた門が
太上皇廟の垣根にあたる場所だったので、申屠嘉はそれを理由に晁錯を斬ろうと上奏した。そのことを知った晁錯は夜間に景帝にそのことを言い、次の日景帝は「晁錯が門を作った所は廟の外側の垣根であるし、そもそも私がやらせたのだから晁錯は無罪である」と申屠嘉に言った。申屠嘉は「先に晁錯を斬ってから上奏するべきであった」と悔やみ、血を吐いて死んだ。景帝前2年(
紀元前155年)のことである。