1989年、漫画には「面白い、おかしい」だけではない多数の表現が可能になったとして、漫画の新しい呼び名「萬画」を提唱し「萬画宣言」を発表。以降は自らの職業を「漫画家」ではなく「萬画家」と称した。没後の
2007年末には、500巻770作品におよぶ個人全集『石ノ森章太郎萬画大全集』(
角川書店)が、一人の著者による最も多い漫画の出版の記録として
ギネスブックに認定されている。
1938年(昭和13年)
1月25日[松本零士と同じ生年月日である。]、
宮城県登米郡石森町(いしのもりちょう、現
登米市中田町石森。これが石ノ森のペンネームの由来である)に、父・康太郎(こうたろう)、母・カシクの長男として生まれる。姉、弟2人、妹の5人兄弟であった。下記にもあるように当初は
映画監督を志していたが3歳上の姉は生来病弱で、外出もままならない彼女のために学校での出来事や外での見聞などを絵に描いて見せていたのが漫画の原点であったという。中学時代、近所の子供を集めて漫画同人誌『
墨汁一滴』を作るも、2号で廃刊。2年生の時「毎日中学生新聞」に4コマ漫画を投稿し入選、以後投稿マニアとなる。
宮城県佐沼高等学校[同校出身の漫画家に大友克洋がいる。]入学後、『
漫画少年』への投稿仲間を集めて「東日本漫画研究会」を設立、肉筆回覧誌『墨汁一滴』を制作する。このころ既に漫画業界で「宮城県に天才がいる」と評判になっており、高校2年生の春、『
鉄腕アトム』執筆中の
手塚治虫に「シゴトヲテツダツテホシイ」との電報を受け、学校を休んで上京。中間テストを挟んで手塚のアシスタントを務める。このとき背景や脇役だけを描けば充分であったにもかかわらず、アトムやヒゲオヤジなどのメインキャラクターまですべてを手塚タッチで描いてみせたため、手塚も度肝を抜かれたという。この頃のあだ名は「じゃがいも」。