先代の
推古天皇は、在位36年
3月7日(628年)に死去した時、継嗣を定めていなかった。
蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と
山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとした言う説と他の有力豪族との摩擦を避けるために
蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したと言う説がある。また近年では、
欽明天皇の嫡男である
敏達天皇の直系(田村皇子)と庶子である
用明天皇の直系(山背大兄皇子)による
皇位継承争いであり豪族達も両派に割れたために、蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方もある。
『
本朝皇胤紹運録』や『
一代要記』などでは、49歳で崩御と伝えられている。古い史料による確認は困難なものの、母である
糠手姫皇女(田村の御名は彼女から継承されたものである)が舒明よりも20年以上長く生きて
天智天皇3年(
664年)に死去している事や、子である天智天皇らの年齢を考えると、ほぼ正確な年齢(もしくは数年の誤差)ではないかと見られている。