1934年、
菊池寛は『
文藝春秋』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にて、この年の2月に死去した
直木三十五、1927年に死去した
芥川龍之介の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。
1924年に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し、直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており、両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『
文学界』の編集者であった
川崎竹一の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎が
ゴンクール賞や
ノーベル賞など海外の文学賞を紹介したついでに、日本でも権威のある文学賞を設立するべきだ、と書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている
[梅田康夫「芥川賞裏話」『創』1977年3月号初出、『芥川賞の研究』124頁-125頁]。このとき菊池は川崎に、文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や
永井龍男らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され、正式に両賞が設立された。設立当時から賞牌として懐中時計が贈られるとされており、当時の副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として
川端康成、
佐藤春夫、
山本有三、
瀧井孝作ら11名があたることになった。
芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが、設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている
[永井龍男、佐佐木茂作「芥川賞の生まれるまで(対談)」『文学界』1959年3月号初出、『芥川賞の研究』10頁-11頁]。
1954年に受賞した
吉行淳之介は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており
[前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』143頁]、
1955年に受賞した
遠藤周作も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している
[遠藤周作、開高健「対談 芥川賞」『文学界』1963年9月号初出、『芥川賞の研究』158-159頁]。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは
1956年の
石原慎太郎「
太陽の季節」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や、学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく、「太陽族」という新語が生まれ、石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした
[前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』143頁]。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり、
1957年に
開高健、
1958年に
大江健三郎が受賞した頃には、新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた
[前掲 梅田康夫「芥川賞裏話」、『芥川賞の研究』146頁]。今日においても話題性の高さは変わらず、特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。
上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは
日本文学振興会から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ、各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6〜7回ずつ、計12回〜14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。
最終候補作が決定した時点で、候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、下半期は1月中旬に
築地の料亭・
新喜楽1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる。