農業・菅波久助の長子として生まれる。茶山が生まれ育った神辺は、
山陽道の
宿場町として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、
京都の
那波魯堂に
朱子学を学び、
和田東郭に
古医方を学んだ。京都遊学中には
高葛陂の私塾にも通い、
与謝蕪村や
大典顕常などと邂逅した。故郷に帰り、頃、神辺(現在の福山市)に私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした。塾はには
福山藩の
郷学として認可され
廉塾と名が改められた。茶山はから福山藩の儒官としての知遇を受け、
藩校弘道館にも出講した。
化政文化期の代表的な詩人として全国的にも知られ、
山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという。詩集『黄葉夕陽村舎詩』を発行した。(復刻版は葦陽文化研究会編、児島書店、1981(昭和56)年)