「藤原朝臣」の姓は、死を目前にした鎌足が、天智天皇から与えられたものである。通説では、鎌足の子である不比等がその姓を引き継ぎ、以後、不比等の流が藤原朝臣と認められたとされる。
他方、この時に与えられた藤原の姓は鎌足一代のものであり、後に改めて鎌足の遺族に藤原朝臣の姓が与えられたとする説もある。この見解は、鎌足の死後、
中臣氏を率いた
右大臣・
中臣金が、
壬申の乱で敗北した
大友皇子方について処刑されたため、乱とは無関係の鎌足流も一時衰亡の危機を迎えたことを一因とする。乱平定の後、
天武天皇13年(
684年)に
八色の姓が定められた際には、
朝臣を与えられた52氏の中に「藤原」の姓は登場せず、鎌足の嫡男である不比等を含めた鎌足の一族は「中臣連(後に朝臣)」と名乗っていたとする。そして、『
日本書紀』に鎌足没後最初に「藤原」が登場する翌天武天皇14年(
685年)9月以前に、鎌足の遺族に対してあらためて「藤原朝臣」が与えられ、その範囲が定められたとするものである(
高島正人説)。
不比等の死後、外孫である首皇子(聖武天皇)が皇位に就くと、不比等の男子である
武智麻呂・
房前・
宇合・
麻呂の
藤原四兄弟と天武天皇の孫である
長屋王ら皇族を中心とする一派の対立が深まっていった。
729年(天平元年)、
長屋王の変が起こり長屋王は自害する。これは、藤原四兄弟が自分達の異母妹で天皇の妃である
藤原光明子を史上初の皇族以外出自の
皇后に立てるため、反対する長屋王を讒言により陥れた陰謀事件であったとされる。なお、光明子の立后によって藤原氏の地位が向上することは、藤原氏を母方の実家とする聖武天皇にとっても好都合であることから、天皇の意向を受けた政変であったとも解される。