野間清治は弁論の気風による青少年教育のために大日本雄弁会を起こし、1909年に『雄弁』を創刊していた。
明治期における
三遊亭円朝の『
牡丹灯籠』速記本のヒットに始まる講談速記本の流行、
日露戦争後から始まる講談を口述に似せて書く「書き講談」の
立川文庫などによる人気に触発され、野間は大衆啓蒙の手段として講談を出版に取り入れようとして、1911年11月に速記講談を主にした『講談倶楽部』を創刊した。これにより大日本雄弁会は講談社の名も持つことになる。創刊号は定価18銭、1万部刷って1200部売り上げと初期は返本の山だったが、1年後には8000部ほどが売れるようになった。
1913年には臨時増刊「
浪花節十八番」を出して好評となるが、講釈師たちが浪曲家と同列にされることに反発したのと、速記による講談落語を供給していた
今村次郎が講談社に独占権を求めるのと浪花節掲載を見合わせることを申し入れたのを断られたことで、今村は
文光堂が発行を始めていた同種の雑誌『
講談世界』上で講談社攻撃を行う。それに対して『講談倶楽部』では、書き講談を「新講談」と称して掲載、これがかえって読者に支持されるようになり、紙面から速記講談を一掃する。この新講談の書き手には、それまでの
半井桃水、
渡辺霞亭、
稲岡奴之助、
行友李風、
大谷内越山などに、
本田美禅、
前田曙山などが加わることになった。これが
大衆文芸が
マスメディア化していく端緒となる。その後は
吉川英治など多くの人気作家を輩出した。
しかし時流により講談社は1962年11月で『講談倶楽部』を廃刊し、12月から中間小説誌『
小説現代』を創刊する。これが、既に1960年に廃刊されていた
光文社『面白倶楽部』などを含めた、いわゆる倶楽部雑誌の最後となった。