太平洋戦争終結後に家族と共に日本へ引き揚げた赤羽(36歳)は米国
大使館に職を得て、以降の18年をここで過ごすことになる。並行して舞台美術の仕事を通じ
木下順二や
松山善三と交際、周囲の評価からは理知的で端正な人間像が浮かびあがる。50歳になった赤羽は
瀬田貞二の『かさじぞう』で挿絵を描き絵本画家としてデビューした。本人の説明によると
茂田井武の『
セロひきのゴーシュ』(福音館書店)を見たのが画家転進の動機の一つとされる。以降発表した多くの作品は、国内のみならず海外からも高い評価を得ている。代表作に『
スーホの白い馬』、『おへそがえる・ごん』。
1980年には斯界において最も権威のある賞とされる「
国際アンデルセン賞」を受賞(20世紀において受賞した日本人は3人しかいない)。授賞式に臨んだ赤羽はスピーチの中で感謝とそれ以降の仕事への強い意欲を表明している。
この人物の没後、故人の意思に基づきその下書きのデッサンから原画を含む六千数百点全てが遺族の手より「
ちひろ美術館」へ寄贈されている。これほどの点数の作品を自分とは直接その運営に関係を持たない
個人美術館に寄贈したのは、当時でも奇異の目をもって見られている。一説によると、背景には激動の昭和を生きた赤羽は木下と共に
共産党シンパでありながら、アメリカ大使館へ奉職せざるを得ない自分への葛藤があり、これこそが巨匠に決断をもたらした最大のものであるとされるが、あくまで推測の域をでない。