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「遼」||小説-master.com 【05/29update】

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{{中国の歴史}}
(りょう、{{lang-en-short|Liao Dynasty}}、916年 - 1125年)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の王朝。
当初の国号は大契丹国で、遼の国号を立てたのは947年である。さらに983年には再び契丹に戻され、1066年にまた遼に戻されているから、本来であれば947年以前と983年-1066年の国号は遼ではなく契丹と呼ぶべきであるが、便宜上まとめて遼とする。

◆ 歴史
現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。
太祖耶律阿保機は西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、東は渤海を滅ぼして、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。
さらに二代目耶律徳光は五代後晋から華北北京大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と中国式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の征服王朝と評価されている。
太宗は燕雲十六州の奪還をもくろんで、北伐軍を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼のほうでもこの時期には皇帝の擁立合戦が起きて、内部での争いに忙しく宋に介入する暇はなかった。六代聖宗は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。1004年、再び宋へ遠征軍を送り{{Langを結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の絹と銀を宋から遼に送ることを約束し、和平条約を結んだ。これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。
その後は宋から入る収入により経済力をつけた事で国力を増大させ、西の西夏を服属させる事に成功し、北アジアの最強国となった。また豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買っていた。
女真は次第に強大になり、1115年には自分達の王朝を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗し、遼弱しと見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳北遼13世紀に成立した旧王族耶律留哥東遼などもある)。

◆ 政治
遼の政治体制は遊牧民と農耕民をそれぞれ別の法で治める二元政治であり、契丹族を代表とする遊牧民には北面官があたり、燕雲十六州の漢人や渤海遺民ら農耕民には南面官があたる。原則的に、北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で望み、南は唐制を模倣した法制で望んだ。
北面官の機関には北枢密院・宣微員・大于越府・夷離畢院・大林牙院などがあり、北枢密院が軍事・政治の両権を一手に握っている最高機関となっている。この機関は太祖の勃興時には存在せず、後から南面官の役職と同じ名前で作られた物である。当初は大于越府が最高機関であったが、北枢密院が作られてからは有名無実化し、名誉職のようなものになった。
南面官の機関は南枢密院を頂点とし、三省六部や御史台と言った唐制に倣った役職が置かれて統治されていた。ただし南枢密院は北枢密院と違って軍権は持っておらず、民政の最高機関である。
この二元政治は聖宗期を過ぎた頃から契丹族内での中国化が進んだため実情に合わなくなってきた。これを中国の体制に一本化しようとする派と契丹固有に固守しようとする派とで争いが激しくなり、滅亡の原因の一端となった。
遼の兵制は、北では国民皆兵制であり、これが基本的に国軍となる。南では郷兵と呼ばれる徴兵制を取っていたが、これは地方守備軍に当てられており、指揮権は南面官には無く各地方の長官が持っていたとされる。南軍も時に北軍に従って遠征軍に入ることもあった。

◆ 地理
遼の領域は五道に分けられ、それぞれに中心都市が設けられた(→複都制)。
上京臨{{lang(現在の巴林左旗南波羅城)
・ 東京遼陽府(現在の遼陽)
中京大定府(現在の赤峰寧城県)
・ 南京析津府(燕京:現在の北京)
・ 西京大同府(現在の大同)
都は上京臨府(現在の内モンゴル自治区巴林左旗の南、巴林左旗は内モンゴル自治区南部の都市赤峰市から北上した大興安嶺山脈の麓にある。は、?(さんずい)に黄)に置かれた。

◆ 遼の皇帝