紀元前209年、兵士であった陳勝が
秦の官吏に命じられて人夫を護送していたところ、途中の道で大雨に遭いどうしても期日に間に合わなくなった。秦の法律では人夫が現場に1日でも遅れた場合、死刑である。追い詰められた陳勝は仲間の
呉広とともに、反乱を成功させるためにふたりが人民から人気のある
扶蘇・
項燕であると詐称、次に魚の腹に「陳勝が王になる」と書いた布を入れ、夜に火を炊ぎ
キツネのような声で「陳勝が王になる」と言い、陳勝に不思議な力があるように人夫たちに思わせた。次に呉広が「おれは逃げる」と騒ぎだしたために怒った指揮官が呉広をむち打つすきを突き、指揮官を殺害して反乱を起こした。このとき陳勝は「
王侯将相いずくんぞ種あらんや」(王や諸侯、将軍、宰相になるのに血筋や家柄が必要なわけではない。誰でもそういった顕位に登ることができるのだ)という名言を吐いた。
陳勝の反乱軍は瞬く間に膨れ上がり、旧
楚の首都
陳城を占領した。その直後に賞金首として秦から追われていた
張耳と
陳余が配下となった。そして、張耳と陳余の反対を押し切って楚を復興したという名目で国号を
張楚とし王位に就き、これに応じ地方の将軍や農民らが反乱を起こした。
項梁・
項羽・
劉邦もそのなかの一人であった。
また、この頃から主力である呉広軍が秦の
章邯に押されるようになり、元々農民であった呉広に軍の指揮能力がないと見た
田臧がクーデターを起こし呉広を殺害する。陳勝も泣く泣く田臧による呉広殺害を認めた。だが、田臧軍も章邯軍に壊滅させられることとなった。陳勝自身も大軍を率いて章邯と会戦するも大敗を喫し、前208年に形勢が悪化したとみた御者の
荘賈に殺された。ちなみに、荘賈はその後元陳勝配下の
呂臣によって殺害される。
結局、反乱は陳勝が王位に就いてから半年で鎮圧されたが、この反乱は項梁・項羽・劉邦に引き継がれることになった。農民出身の陳勝と呉広が起こした中国史上初の農民反乱は失敗に終わったとはいえ、反乱の先駆けとなった陳勝と呉広の功績は大きく、後世物事の先駆けを表す言葉として陳勝呉広と言われるようになった。