行範の死後、「たつたはらの女房」はすぐさま剃髪して
鳥居禅尼と名乗り、菩提寺の
東仙寺(旧
新宮城付近にあったといわれるが、現在、鳥居禅尼の祈念仏といわれる阿弥陀如来仏・薬師如来仏などが同寺にまつられている)に入り、行範の菩提を弔いつつ、後家として一家の要の位置を占め、子供たちを育てた。鳥居禅尼の子には、那智の有力
社僧に養子に入り後に那智執行となった範誉を筆頭に、弓の名手として伊勢の海賊から恐れられたと『
古今著聞集』に記された行快(後の22代熊野別当)、さらには範命(後の23代熊野別当)、『
新古今和歌集』の歌人として有名になった行遍、後の権別当の行詮、同じく権別当の行増などがいる。
新宮別当家は、こうした鳥居禅尼の働きにより鎌倉将軍家の一族として手厚く遇され、
熊野三山内外にその勢力を伸ばしていったものと思われる。鳥居禅尼は女性なので別当にこそなれなかったが、
熊野三山統轄機構の中枢部にいた夫の行範や義弟の範智(20代熊野別当)、それに娘婿の
湛増(21代熊野別当)、さらには子や孫を通じてその影響力を大いに発揮し、
1210年頃、かなりの高齢で死去したと伝えられる。